ももたんの発達と解離ライフ

発達障害・解離性障害当事者であるももたんの声をお届けします

カサンドラの母と発達障害の父

今回は題材通り、カサンドラの母と未診断ではあるが恐らく重度の発達障害の父の話を少ししようと思う

 

その前に、ひとつだけ留意点をあげると、わたしはカサンドラのかたを否定することはまず無く、また発達障害の人にもカサンドラの人にも人権があり、双方に擁護されるべき点があるということ。またそれ無くしてどちらの支援も発生しないということをお伝えし、そこに重きを置いて話せるよう、つとめていきたいと思う所存である

 

まずはわたしが子どもの頃…

母がパニックによる過呼吸不整脈を起こして初めて夜中に運ばれたのは、わたしが小学5年生の時だった

夜中に起こされて母がひゅうひゅうと苦しそうに呼吸をし、わたしに助けを求めた。仕方なく救急車はわたしが呼んだ

小さな弟妹の面倒は祖母が飛んでくるまでわたしが全て見た


その日はなんとか座流星群の日だと思い出したわたしは、星座の名前を確認し、起きてしまった弟妹をベランダ側に連れて空を眺めさせた。ベランダから空を眺める弟が流れ星!とはしゃぐのを横目に母を待つ


母は程なくして異常無しと言われ、わりとすぐ帰ってきた


母はその後も度々過呼吸不整脈を訴えて運ばれた。決まってそれは夜中で、わたしは毎回救急車を呼んだ

サイレンを鳴らして来るのを嫌がる母からの要望を、電話で隊員の方に伝えたこともあった


その時風邪をひいた妹が母の留守番中布団の上に吐いた嘔吐物も、小学6年生になったわたしは処分したり、お腹を空かせたと泣く当時赤ん坊だった末っ子にミルクを作って飲ませたり…。

 


なんでこうなるんだろ?と思ってた

 


わたしが大人になってネット社会に入りこんで知った、カサンドラ症候群。きいたことも見たこともない、病名なの?疾患名?なんだこれ?と思って調べると、母の症状と見事に合致

 

カサンドラ症候群発達障害などを抱えるパートナーとのコミュニケーションや意思疎通を図ることの困難から生じるストレスで、自身がパニック症状による過呼吸不整脈、そしてうつなどの精神的から肉体的まで様々な影響を及ぼす症状を総称したもので、疾患名としては確立されてはいないとされている

 

長年母を苦しめてたのは父の行動を理解出来ない気持ちからきたものだとやっと知った

 


そしてわたしは父の発達障害を疑ったのだ

 

 

最近になってだが、父に

「自分に発達障害の自覚はあるのか?」

ときいたところ、驚きを隠せない事実が発覚した

 

父は10年以上前に周囲から

「お前アスペルガーぽいよな〜」

ADHDもあるんじゃない?」

と冗談半分で言われたことをきっかけに、当時ネットで検索したところ、自分の状況と合致した為、ADHDの何らかのネット診断でも無いかと探して、これなら割と良いサイトだろうと専門機関のことも載っているサイトを探し出し、ネット診断をしたところ(どのサイトかはわたしは存じない為紹介は出来ない。また正確な診断は医療機関などにおいてするものである)、ADHDの当事者ですらなかなか出すことは無いという「満点」を出してしまったという

 

父はそこで

「ああ自分はもしかしたらADHDなのかもな」

と自覚していたのだと

 

その年数や10年以上前

なんとわたしが発達障害と医師に告げられる5年以上前である

 

また、現在治療や正確な診断を受けるつもりは、父は無いという。その背景には年齢もあるし、また父が「仕事の成功者」であるというものがある。その為今更診断受けても…と父は口を濁したのである

 

父は子煩悩で明るく、勉強の得手不得手にムラはあったものの、大学から大学院を卒業し、某業界に属しその業界では現在では最早かなり有名な人物である

メディアに紹介されたことも多々あり、テレビ出演なども果たしている

 

しかしメディアに適切で正確に技術を伝える一方、家庭では自由奔放な発言をし、外に散歩に出てふくよかな女性を見ると「うわっ」と指を指して言ってしまう

わたしは小学生の頃からそんな父を「やめてよ恥ずかしい!」と注意していた

 

散らかしっぱなしで物をよく無くし、無い無い!とパニックや癇癪(かんしゃく)を起こしてひっくり返して探すことなんて日常茶飯事

自分の仕事に熱中し過ぎて他の家族が昼食をとっても気付かず、午後3時半に「ご飯まだ?」と言ってきたこともあった(恐らく過集中によるもの)

 

わたしが8歳くらいの時に家庭内別居のような状況になった。正確には家が狭くなったので、アパートをもうひと部屋借りたらそうなって、母もせいせいした表情をしていたものだが…

 

最近はわたしがネットの世界に入り浸り、カサンドラという言葉をきかない、見ない日は無い

その方々の投稿を見ることも多々あるが、実に苦労されているのだ

 

夫として、父親としてなってない、人としても最悪だ!と嘆く女性たちは、彼らを「アスペ夫」「もう1人の大きな子ども」などと呼ぶ

 

その気持ちも投稿を見ればわからなくも無い。それはそれは酷いと思われても仕方ない行動を彼らはしている。これを日常的にされたらわたしだってストレスで、冗談抜きで速攻で別れるだろう

 

ところが発達障害の人は「カサンドラは敵だ!」と言う人まで出ている。彼らからしたらそりゃそうだろう。自らは何も悪いことをしているつもりは全く無い。自分の考え通りに動いたらそう称され、アスペアスペと呼ばれてネットに叩かれる

 

発達障害者の人権は?」と言う人も中にはいる

 

だが思う

 

最初に述べたように、発達障害のかたにもカサンドラのかたにも人権はあり、擁護されるべき点が必ず存在しているのだ

そして繰り返しになるが、その双方の人権無くして双方の支援も発生しない

 

発達障害者がカサンドラを生んでしまう、というと語弊があるだろうが、そういった形になってしまうのは、発達障害者が適切な支援、もしくは診断・治療を受けていない可能性が高いこと。そして、発達障害、特に自閉スペクトラム症に多い「相手やその場の状況を把握することが困難」という特性も原因のひとつと思われる

 

発達障害者は治療を受けてもなお、特性を隠したり治せるわけではない。そもそも発達障害者が社会で適応するには、凸凹を別の何かで補うこと、自らをそうさせる方法を自らあみ出し提案出来るようにならなければ、難しいと言っても過言ではない

 

その為適切な治療を受けても、適応出来るか否かは7、8割がた発達障害者本人の「工夫」にもかかってくるとわたしは思う

 

またカサンドラの方々が大変苦労されている点はもうひとつあり、それは「診断されても本人に自覚が無い」もしくは「本人が自覚しようとしない」点である

 

「俺は普通だよ」「こんなの誰でも同じだ」

 

そのような言葉を放つ人もいるという

この発言こそ発達障害(特に自閉スペクトラム症に多い)特有とも言われる「思考の視野の狭さ」によるものでもある

 

あなたは普通ではないのだと言っても今までの人生で培ってきたもの、プライドなどもあり、また思考に柔軟性が乏しい為、わたし自身ですらそうなりがちである

 

 

長くなったが、我が家は母が父を擁護せず、母は父のことを子どもに悪く言うことで子どもに擁護されようとした

当然子どもはそれを信用し父を擁護しなくなり、敵視したりし始める

 

父が「恥ずかしい存在」という認知の歪みを母に植えつけられてしまうのだ


父は擁護されるどころか無邪気な子どものようにそれを知らないまま今もいる、齢66…。

 

発達障害者と健常者と呼ばれる類の人間のパートナー問題。これは発達障害が存在しなければ存在しない問題なのか?とよくわたしは自問自答しているが、答えなどない、そこは人間の姿をしたひとつの生命体同士の問題であり、それが今や社会的なものとなってしまった、昔々のそのまた昔から実は存在していた、そういうものであろう

 

それを解決出来るかは本人たち次第ではあるが、もし自らの手では追えない場合には、本当に早期から専門機関への相談をお勧めする

 

場合によっては、法的手段をとることも、望むのであれば必要になってくる

 

膨大な苦労の日常から、両者が少しでも良い支援を受け、良い方向に向かうことを願うばかりである

ぴーさんとのわかれ

昨日、2年間お世話になったPSWのMさんと、最後のケースワークを終えてきた

 

現在のクリニックにわたしが通い始めてから今まで、ずっと担当をしてくださったMさん

 

今の目標、これからどうしていきたいか、わたし自身の思いを、一応全て伝えられたと思う

 

先々週、Mさんの前で激しく泣きながら「もう疲れてしまった」「責めるつもりは毛頭無いけれど、何故このタイミングで…」と言ったわたしを、今までで1番の悲しい表情で見つめてたMさん

 

今日は笑ってわかれようと決心してたけれど…

 

やっぱり涙がこぼれ落ちてしまった

 

そんなわたしを見てMさんも時折目尻に涙を光らせていた

 

どれだけわたしが彼女に依存してたかがわかる

だからこそつらい

 

で電車にすら乗れずタクシーで帰る時、車椅子でクリニック1階まで連れて行ってくださったり、キーキーと泣きながら怒っていたわたしを心配そうに見つめて諭してくださったりした、2年前が本当に懐かしい

 

「本当に大変だったんですよね〜あの頃!」

 

と笑いながらも感慨深げに話すMさんが、印象的だった

 

最近痩せてしまったMさん。今回は退職だけれど、どこかできっと見守ってくださってると思う

 

今もどっかの喫煙所で煙草ふかしているんじゃないかなぁ、とか、勝手に思ってしまう

 

上手く気持ちがまとめられないまま、このブログを書いているが、最後に入学する予定の大学に提出する小論文をMさんにも読んでもらった

 

「……完璧ですね!!!」

 

ニヤリ笑ってそう言ってくださった

 

部屋を出る時に、手紙を渡すことが出来たので、わたしの中で彼女に対して心残りはほぼ無い。言いたいことは山ほどあったけど、本当に大好きで大好きで…憧れる存在だった

 

彼女がいなければ、わたしの今の目標は無かったし、彼女と出会わなければもっと崩れてたのかもしれない、そう思うと本当にMさんは凄い姉のような眼差しで見守ってくれた大きな存在だったのだと思う

 

思いの丈は手紙に託して渡したのでここには書かないが、本当にMさんに出会えて、わたしは嬉しかった

 

Mさんからの卒業、おめでとう、わたし

わたしの感じる「別れ」

人は、人生で様々な「別れ」に遭遇する

 

喧嘩別れ、卒業しての別れなど、色々挙げればキリが無いが、その「別れ」の中には、当然だが「死による別れ」もある

 

以前、自閉症児の親御さんが「この子は人の死の意味がよく理解出来ない、何か大変な事が起こったということは解釈したらしい」ということを仰っていたのを思い出した

 

わたし自身、人が亡くなっても、葬儀で周囲が泣いている中、平気でケロッとした表情で、淡々としているとよく言われるし、自分にもその自覚はある

 

最初はその前述の親御さんが仰ったように「わたしは自閉傾向が強いが故に、人の死などの意味がよくわかっていない」のだと思っていた

 

 

ところが、それを覆す出来事が起こる

 

 

昨年、今年と、とある知人が2人自死した

 

 

しかし、わたしは特に何も考え込む事なく、知人の死の後も平然としていた

寧ろその事をカウンセリングで伝えた心理士のほうが、その平然さに驚いていた

 

そして更に、わたしと同じように知人を自死で亡くした友人と、その事について話す機会があった

そこで気付いたのである

 

わたしは「割り切っていたのだ」ということに

 

人は亡くなってしまえば、もう会うことは二度と無い

寧ろ会いたくてもそれが叶うことはもう無いのだ

 

わたしの中で人が亡くなるということは、もう会えないから「諦めがつく」のだ

 

当然ながら自死した人間に、何故?といった疑問もわかない

もうその人は、その人の人生を全うし、最期も自分で選べた、それを周りがとやかく言う資格は無いのだと、少々残酷な表現であることは承知の上だが、思うのだ

 

 

では、「生きたまま別れる」ことに関してはどうだろう

 

 

生きたまま別れるということは、確かにもう会うことは無いのかも知れないが、生きている限り、この世の中の何処かには存在する

だから、もしかしたら、何処かでまた会ったり、すれ違う可能性すらあるのだ

 

そう考えると、わたしは「死に別れ」より「生き別れ」のほうが物凄くつらい

 

わたし自身は葬式などで、泣いたことは一度も無い

だが、文字通り生きたまま別れを告げられる場面では、あまりに密な関係の人間だと、それこそ号泣する。涙が溢れて止まらなくなるのだ

 

最近だと、わたしが大好きだったPSWのかたが、退職するという出来事があった

わたしがそのクリニックに通い始めた頃、めちゃくちゃな状態で荒れていたのを知っている、数少ない支援者である。彼女はわたしのその荒れていた頃から、やっと少しずつ落ち着くまでの過程を、ほぼ全て見ていた

 

先日、そのPSWとのケースワークで、嗚咽を堪えながら泣くわたしを、彼女は申し訳なさそうな表情で見つめながらこんなことを言った

 

「あなたにとって、これはひとつの「卒業」なのかもしれないですね」

 

卒業、17年ぶりにその言葉をきいた

 

そう、わたしは彼女にそれだけ依存していたということ、そこから彼女がいなくなることで「彼女(PSW)から卒業」という意味合いなのだ

 

「これから色々変化していく中で、良い転機なんだと思う。お互いつらいことだけど、良い意味で卒業、ですね。悪い意味で捉えないで、良い意味で」

「わたしが居なくなる、という変化と、でも、変わらないものもある。〇〇先生(主治医)と△△先生(心理士の先生)は、此処に居るから」

 

そんな言葉を彼女はわたしに言い聞かせるように言った

わたしはうんうん、と涙を拭いながら頷いた

それは自分への言い聞かせでもあった

 

 

生きたまま別れること、死に別れること、人生生きていれば数多く遭遇するものである

そして、人それぞれその捉え方も違う

 

この記事の捉えかたはあくまで「わたしの場合」である

これから年齢を重ねていく中で経験していく様々な「別れ」を、自分の中で如何に受け容れて消化していくか、大きな課題になりそうだ

ハンドメイドを始めたきっかけ〜わたしがキラキラを作る〜

わたしには、ハンドメイドという趣味がある

 

発達障害解離性障害という、わたしに貼られたレッテルのようなものから、少しでも離れられる、そういうものとは関係の無い世界…。

 

わたしがハンドメイドを始めたのは、今から約28年前、4歳の時である

 

もともとキラキラしたアクセサリーが好きで、乳児期の写真には母親のアクセサリーや、子ども向けビーズを眺めているものもある

 

そんなわたしが4歳の時、何故そんな幼い頃からハンドメイドを始めたのか

 

そこには4歳児らしからぬきっかけと想い、そして決意があった

 

わたしが4歳になって間もない1990年8月2日、イラク軍が隣国クウェートへの侵攻を開始し、それをきっかけに国際連合多国籍軍の派遣を決定したことから、翌1991年1月17日、イラク空爆して「湾岸戦争」が始まった

 

ラジオやテレビからは、毎日のようにそのニュースが流れていた

 

そんなある時、偶然祖母宅で見たのは、テレビに映る戦地の映像だった

 

我が家では母がクリスチャンだった為、子ども達も毎週日曜に教会のミサに連れていかれていたのだが、そのミサの中で「平和」という言葉を毎週幾度となくきき、その言葉の意味をある程度把握していたわたしは、テレビを見て動けなかった

 

平和平和と毎週言わされてたのに、このテレビに映る戦地は平和のかけらもない

逃げ惑う人々、廃墟の如く破壊された街、怪我をした幼児の姿…

 

4歳だったわたしには衝撃でしかなかった

 

そんな時、ふと思った

 

「わたしの住んでる世界って、こういうこともあるんだ」

「暗くて嫌なお話…」

 

「そうだ、こんなに世界が暗いなら、キラキラしたもので世界をキラキラにすればいいんだ!」

 

「世界が暗くても、わたしがキラキラを作って、みんなに見せたら、みんなもキラキラにならない?それが地球にいっぱい広がったら、全部がキラキラになる!」

 

「そうだ、ビーズでお部屋を飾ろう、そしたらまずはお部屋からでもキラキラになるよね?」

 

わたしは居ても立っても居られなくなり、母親にビーズでアクセサリーを作りたいと訴えた

 

すると、ハンドメイド好きな母は、普段なら簡単に物を買い与えることを絶対しないのに、快く受け入れて、ビーズを買ってくれた

 

それはアクリルだかプラスチックだかで出来た、オーロラ加工のされた当時流行りのビーズだった

 

わたしはそれで手始めにネックレスを作った

この写真のネックレスがそれである

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よく見ると、色の選び方、色の配置などに規則性があるのがわかる

 

それからというもの、今までにガラスビーズ、スイーツデコ、ネイルチップアート、スワロフスキー、チェコビーズ、天然石、レジンなど、様々な分野に手を出してきた

 

幼児期からハンドメイドを始めて約28年間、正直スランプは何度もあった

 

今回、グループ展に出させていただくが、そこでも様々な葛藤があった

 

そんな中、この4歳の時にハンドメイドを始めたきっかけを思い出したのだ

 

わたしが使う資材は、キラキラと輝くものがかなり多い

オーロララメやオーロラ加工されたもの、ギャラクシーなイメージのラメもよく使用する

その背景がこのハンドメイドを始めるきっかけにあったのだと、やっと気付いた

 

わたしは、わたし自身に自信が無い

ただ、ハンドメイドをするにあたり、拘りは物凄くある

 

オーダーいただいたら、予算内で希望いただいた1番良い質の資材を使用し、さらにパーツの位置などは事細かに確認し、希望に添えるように最大限の工夫をする

 

そんな拘りもあってか、年々アクセサリーのフルオーダーをされるお客様も増えている

ちなみにお客様の比率は男女半々くらいで、イベントだと女性が多く、フルオーダーなどオーダーに関しては、実は男性のほうが多い。男性は動物をイメージしたものからユニセックス系など、幅広い趣味層のかたに愛用していただいている。中には3年ほど前にオーダーいただいたキーホルダーを今もカバンにつけている男性もいらっしゃって、本当に感謝である

 

わたしの作品を少し紹介しよう

7、8年ほど前に作ったネイルチップ

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5年前に製作開始した、スワロフスキーを使用したストラップ

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レジンを使用したアクセサリーの数々…

2016年の作品

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男性にオーダーいただいたペアリング
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グループ展にて出品した作品
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最近の作品
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また、2017年12月、レジンクラブ様主催のレジンアートコンテストで、特別賞を受賞した

これがその作品である

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今後のハンドメイドイベントの詳細を以下に宣伝も兼ねて記載します

9/20〜9/24

Lupopo cafe様にて、グループ展「夜展〜綾なす望月〜」

 

11/17(土)

パシフィコ横浜にて、ヨコハマハンドメイドマルシェ

「Happy QucCa」として出展

 

【委託販売先】

上板橋の「日向箱(ひなたぼっこ)」様

SL-562(9/30まで)

SW-503(10/1〜)

 

自由が丘の「MIKKE」様

R-83

MIKKE様は今年10月末で委託して2年を迎えます

 

楽しく作ることを、これからも重要視していきたいものである

 

 

「見捨てない治療」が生み出す苦痛〜延命措置の現場を目撃して〜

現在、精神科病棟では患者の高齢化が進んでいると、最近思う

 

わたしが入院している病棟も、本来であれば精神疾患を持つ人が入院する、ストレスケアをメインに休息する為の病棟ではあるが、7、8割が70歳以上の高齢者、その殆どが認知症を患っていると思われる

 

中には認知症病棟でストレスが溜まり、それをきっかけにストレスケアの病棟に来た患者もいる

 

今月始めに80歳近い女性の認知症患者が、急変した

 

点滴に24時間繋がれ、座ることも出来ない

入浴時はストレッチャーで移動しオール介護

食事は流動食すら困難

 

そして、痰の吸引のような治療が毎日決まった時間に行われる

 

それも、苦痛を伴うそうだ

 

毎回看護師が処置するのだが、その患者は

「痛いよ、やめて」

「助けてよ」

と泣きながら懇願する

 

先日も20代の若い看護師が

「ごめんね、もう少しで終わりますからね、もうちょっとよ」

と励ましながら処置を施していた

 

この女性の患者は、身寄りもいないらしい

というのも、この2ヶ月半病棟が同じだが、一度として見舞客を見た事がない

また80歳近い高齢と、認知症による意思の疎通が難しい状態である

 

その厳しい現状の中、急変したご本人が延命を望んでいるのかも、恐らく判断が難しいと思われる

しかし、泣きながら懇願するその患者を見て、物凄い苦痛が生じているのは、恐らく定かである

 

何故、そこまでの苦痛を伴う治療を施しているのか

 

この病院は

「絶対に見捨てない」

ことを基本理念として掲げている

 

その基本理念を見た時、ああ、こういうことか、と思った

 

「見捨てない」ことに恐らく相当な重きを置いているのだ

 

それが、意思疎通の難しくなった患者への、苦痛を伴う延命措置・治療に繋がっているのではと思った

 

家族など身寄りがおらず、配偶者もいない(もしくはご本人を見れる状態ではない)、恐らく生活保護…。

 

そんな現状の中、患者の状況が急変してしまうと、あとは医師の判断にしか頼ることは出来ないし、看護師や他の病院スタッフも、それに従う他は無い

 

延命措置・治療とは、基本ご本人やご家族の意思を尊重する上で行なったり、止めるなりするものである

 

しかし、身寄りの無い意思疎通の難しい患者が、今回のように急変した場合は、誰の意思を尊重して治療に繋げるのだろうか

 

医師であれば、現場で苦しむ患者を救う仕事柄、ましてやこの基本理念を掲げていれば、当然のように延命措置を行うのかもしれない。看護師も然り。

 

見捨てない医療に重きを置き、それに沿った治療をしたくても、身寄りのないご本人と意思疎通をはかるのが難しい以上、もうこれは、治療をしながら患者が亡くなるその時を迎えるまで、苦痛を伴う治療は続くのだろう

 

患者に治療を施す立場の人間である医師始め、看護師はどんな思いでいるのだろう

 

先日夜、隣の病室の60代男性患者がパニック症状を発症した

苦しい、死にたくねえ、助けてください、と泣きながら叫ぶ

夜勤看護師がどうしたの、ときいても、苦しいとしか答えられない。たまたま別の階で業務を行なっていた看護長も何事かと患者に駆け寄る

 

いつも明るくて元気なのが取り柄で、もうすぐ退院するかも、とニコニコした嬉しそうな笑顔で周りに話していただけに、看護師始め看護長も驚いたようだった

翌朝元気そうな顔を見せるも、2時間も経たないうちにパニックは再発

結局医師が点滴や注射で落ち着かせるという事態にまでなった

 

人は一度急変したりしてパニックに陥ると、その時の恐怖感は簡単には消えない

結果、その時の恐怖感を引きずってしまい、再び第二第三のパニックを引き起こし易くなる

 

男性患者は早くに奥さんを亡くし、やはり身寄りが無い

妻の最期を看取ったその男性は、ふとこんなことをわたしに呟いた

 

「おれ、このままあいつみたく、ポックリ逝っちゃうのかと思ったよ…」

 

とても寂しそうな顔だったが、すぐにいつもの笑顔で

「昨日うるさくしちゃって申し訳なかったね」

と照れたように言った。その笑顔が何とも切なかった

 

その男性やわたしを担当する、若いPSWのかたと、延命措置・治療について話したことがある

その時彼女はこんな事を呟いた

 

「わたし、もう医療機関は懲り懲りですね…」

 

わたしはこう返した

 

「わたし自身、現場に実際立つことにならないと、何とも言えないけど、やっぱ見ててつらいこと、思うところはあると思う…それでも、どこかでこういう場面に立ち向かうことをある程度覚悟しなければならないのかな?と思った…」

 

彼女はうんうん、と頷いた

 

「でも…患者さんを1番側で見る密な関係でいると、感情的になったり、入り込んでしまうこと、あると思います。それで病むじゃないけど、心苦しいというか…」

 

わたしがそう続けると、彼女はこう言った

 

「そうですね…それはありますね…」

 

窓の外、降りしきる雨粒を見つめながら小さな声でそう言った彼女

 

見捨てない医療という基本理念に従ってもなお、悩みは日々尽きないのだろう

20代という、若い年齢ながらもPSWとして日々現場に葛藤しつつ立つその瞳に、うっすらと涙が浮かんでいた

 

少しの間を置いて

 

「じゃ、わたし、ちょっくら仕事戻ってきます」

 

と、いつものキリッとした笑顔で彼女は去っていった

 

終わりに…。

延命措置・治療に関しては、ご家族やご本人の中で様々なご意見があることを承知の上で、わたしという、その現場を日々目撃している患者の立場の人間が、思ったこと、感じたことを、飾ったりせず、見たまま、そのままを綴らせていただきました。現在延命措置・治療を受けていらっしゃる患者さん、また共にたたかうご家族の皆様の苦労は、わたしには計り知れないものです。患者さんの回復を心からお祈り申し上げます

孤独を受け入れて生きる

以前、カウンセリングで、こんなことを言われた

 

「人は、皆、孤独を抱えて生きているんだよ」

 

人間は産まれる時から死ぬ時まで、自分1人の力で心臓を動かし、呼吸をしようとする

 

出来ないこと、1人では難しいことは、手伝ってもらいながら、それでも最終的には1人で全てやる事になる

 

カウンセリングも、実はそうなのだと、臨床心理士のK先生は言う

 

こんな言葉をいただいたことがある

 

「わたしたち臨床心理士も、主治医の先生、ワーカーも皆、あなたたち患者、クライエントに代わってあげたくても代われない。何かしてあげることも、答えを教えることも出来ない。ただ、出来ることは、一緒に考えること、答えを導き出すお手伝いをすること、提案すること。それでも最終的に決めるのは、あなたたちなのよ」

 

カウンセリングとは、答えを教えて貰うことではない

様々な話を繰り広げる中で、自分なりの答えを自力で導き出すこと

 

ある臨床心理士のかたの言葉に、こんな言葉もある

 

臨床心理士がカウンセリングを行ったクライエントが、先生のおかげで自分は立ち直れました、ありがとうございます、と言った時点で、実はカウンセリングは失敗と言ってもいい。カウンセリングの成功とは、クライエント自らの力で立ち直れた、その瞬間である」

 

凄く印象的だった

 

この臨床心理士のかたの言葉が、物凄く腑に落ちた

 

臨床心理士が答えを教えてくれたら、簡単に物事が済む、と思っているのは大きな間違いであって、仮に臨床心理士が答えを教えたら、その時点でそれは臨床心理士の個人的意見の押し付けになる、ということだし、そもそもそれはクライエント本人の答えではない、とのこと

 

確かに担当しているとはいえ、自分以外の第三者でもある臨床心理士が、簡単に「こうすればいいよ、これが答えだよ」と言ってきたら、わたしは凄く嫌だと思う。何故ならそれは、わたしが自ら出したものではないし、そうなったとすれば、わたしの気持ちや考えを無視した形になるからだ

 

カウンセリングは孤独な闘いだとわたしは思う

わたしたちカウンセリングを受ける側も、カウンセリングを行う臨床心理士も、それぞれが闘っているのだと、K先生も言う

 

よく、人は1人では生きていけない、と言う言葉があるが、その1人の人間に寄り添うのもまた1人の人間であり、自身が決めて側に寄り添うと考えると、人は孤独なのだという言葉の意味がわかるだろうか

 

例えば2人の人間が寄り添い合うということは、寄り添いたいと思う2人の個体の思いが一致した時で、それぞれがこの人に寄り添うと、個々で決めることである

つまり、孤独な人間2人の方向性が同じだったというだけ、と言うと残酷にもきこえるが、そういうことなのだと思う

 

主治医の先生がこんなことも言っていた

 

「人はね、みーんな孤独よ。1人で自力で生きているの。そして何も無くて暇なのよ。だから暇つぶしをする。例えば、ホビー(趣味、道楽)、カルチャー(文化、教養)、といった英語の言葉があるわね。その語源は「暇つぶし」から来ているの」

 

ということで、まずカルチャーの語源を調べてみた

「cultureは「耕す」を意味するラテン語「colere」に由来し、始めは土地を耕す意味で用いられていたが、英語に入り「心を耕すこと」の意味で用いられるようになった。そこから「教養」「文化」も意味するようになった(引用: 語源由来辞典)」

だそうである

心を耕す、なるほど、物凄く興味深いと思った

勝手なイメージだが、何も無いさら地の心を耕すことで、教養を身に付け、文化を生み出す、ということに繋がるのではと思った

 

次にホビーの語源を調べようとしたが、これは難しかった

ひとつ妥当だと思われるサイトがあったので、そこから引用する

「hobbyの語源を調べてみると、おもちゃの「棒馬」を表す hobby horse を省略したもので、このおもちゃのように楽しいものとして、hobbyが生まれたようです。hobbyという言葉は13世紀末「小さな馬」の愛称として使われた Robin に遡るようで、これが「モリス・ダンス(Morrs dance)で使われる馬」となり、さらに16世紀半ばに「子供が乗る小さな馬」そして「棒馬」へと変化したと言われています。(引用: eigo 21)」

ふむ、確かに乗馬は1人で乗るものであり、1人で楽しむもの、つまり暇つぶしでもある。主治医の言ったことの意味が理解できる

 

ちなみにもう少し調べると、recreation の意味は「気晴らし」だが、同義語としてhobby の単語も記されていた。原義は「病気から回復する」だそうで、このサイトには説明として

「どんなに真面目な人でもたまには息抜きが必要です。例えば活発なサラリーマンは、休日に気晴らしでスポーツを楽しみ(to play sports for recreation)、インドアな人は息抜きにゲームをします(to play video games for recreation)。また福利厚生の豊かな企業は社員の為に保養所(recreation facilities)を設立したり、慰安旅行(recreation trip)を企画したりします」

とあった。ますます暇つぶしから来ている単語だと納得せざるを得ない

 

人は皆孤独を抱えて生きる生き物、とは、どういう意味合いなのか、何となくだがわかってきた

 

孤独だから仲間を作ろうとしたり、遊んだり、仕事したりと、前述したような「暇つぶし」が必要になる、そうやって元々本来孤独なのを、誤魔化してというと語弊があるかもだが、紛らわして生きている、ということなのだ

 

英語はわたしは本当に苦手で、昨年の高卒認定試験(高等学校卒業程度認定試験=昔でいう大検)も合格したものの自己採点で55点だったが、このように紐付けすることで、面白い発見もあるのだと思ったと同時に、これも教養(culture)を身に付けるのだと今書きながら思った

 

人は、孤独な生き物である

故に、個々で息抜き、気晴らし(recreation)をして、知りたいなら教養(culture)を身につけ、教養を身につけたら趣味(hobby)も楽しみながら、自身の孤独な時間を暇つぶし(killing time)でやり過ごして生きていくのだ

 

最後に主治医の好きな言葉を、主治医のインタビュー記事から拾ってきたので、それを綴って今回はここまでにしよう

 

「人はね、裸で産まれて、裸で死んでいくのよ」

 

最後までお読みいただきありがとうございます

また次の更新をお楽しみに。。

わたしがされてきた多剤処方〜13歳のわたしは1日50錠処方〜

ここの所、精神科、心療内科にて起こる多剤処方について、考える時間があった

 

わたしは13歳の時、初めて心療内科にかかった

学校で自傷行為を始めて、相談室のスクールカウンセラーが病院を親に紹介したのである

わたしが訪れたのは、都内の小さなクリニックだった

中学1年生の冬、精神科デビューである

 

わたしの話を1時間半、母親は2時間ほど、別々に当時の主治医M先生と話した

そして、早速心理検査を受けることと、投薬治療の開始を告げられた

 

当時どんな薬を出され、心理検査を受けたのかは明確には覚えていない

ただ1日20錠以上は出されていた

心理検査はwiscとバウムテストを受けたのだけは覚えている。後に当時のIQを知ることになるが、M先生は結果を見て直ぐに入院が必要だとわたしたち親子に告げた

中学2年生の5月、わたしは当時都内では有名だった小児精神科の思春期の女の子が入院する病棟に入院した

 

入院時、まずついた病名は「神経衰弱(現在でいうところの抑鬱状態)」である

そして間も無く多剤処方は始まった

朝昼夕寝る前と、それぞれ10錠ほどを1日4回薬が処方された。更に、調子の悪い時の頓服薬も含めると、1日50錠近くの量だった。当時患者の子ども達の間では、薬は多いほど凄いんだ!という訳の分からない思い込みがあり、わたしよりも多い子なんかは寝る前に16錠も飲んでいた(なお、この中には副作用止め、下剤、胃薬、アレルギーの薬などを飲む子もいた為、精神薬以外の薬も全て引括めた実際の量である)

 

4ヶ月後退院したが、多剤処方は終わりではなかった

わたしは学校の登下校中や部活中のことはあまり覚えていない。薬でぼーっとしていた為、記憶が無いのだ。中学2年、3年の文化祭で、吹奏楽部の一員としてステージに出たことも、合唱コンクールでどのパートを歌ったかも、ほぼ覚えていない。薬の副作用で眠りこけているわたしに、教師は容赦なく起きろと言う。しかし、その声さえもほぼわからない。結局気付いたら保健室で横になっていた

 

体重も増えた

 

中学1年の最初の頃までは至って標準より少し軽い、顔もほっそりとした足の長い、所謂健康的なモデル体型ともいえる体型だったが、中学を卒業する頃には平均を10キロ以上も上回る体重になってしまった。恐らく薬の副作用とストレスで過食になっていたのは、もう間違い無い。中3の1学期に測った体重は53キロ、卒業時は57キロだった

 

高校も受験したが、何をしたのか、何を面接で言ったのか、さっぱり覚えていない。薬で意識が無くなり、気が付いたら家で寝かされていた。当然、受けた2校の高校は落ちた

当時飲み始めたのは、ベゲタミンB、PZC、ピレチア、ヒルナミンリボトリールなどである

他にもアーテンアナフラニールトリプタノールコントミンロヒプノールラボナなど、様々な種類の薬が次々と処方された

(注意: ベゲタミンは2016年12月より一般の精神科外来では処方されておらず、市場には出回っておりません。大変強い薬でオーバードーズによる死者、重度の後遺症を抱える者も出ている為、かねてから危険性を示唆されていました)

 

ここからは、残っているお薬手帳の写真と共に、どのような薬をどのくらい処方されていたか、診断名も含めて振り返ってみる

まずはこちら

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2008年11月25日に処方された薬である。当時22歳。就労継続支援B型事業所からグループホームに入った頃だ。計算すると1日23錠飲んでいる。これより少し前の18歳の時、自分は統合失調症と随分前から既に診断されていることを知った。見ての通り、ベゲタミンAも処方されている

 

次は翌年の2009年のデータである

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2月24日、11月10日、共にまだベゲタミンAが処方されているが、2月のほうではエビリファイ(アリピプラゾール)、11月のほうではエビリファイは無く、リスパダールが半減、ここまで飲んでるのに不眠時の頓服、ラボナが出ている。

 

そして翌年を見てみよう

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ここでちょっとした変化が起きている

5月11日にあるベゲタミンAが、11月16日に、実に数年ぶりにベゲタミンBに変わったのである

しかし、やはり強い薬を出されていることに変わりはない。ロヒプノールレンドルミンが出ていると同時に、副作用止めのアキネトンが1日4錠から5錠に増えたのは、セロクエル(クエチアピン)、エビリファイリーマス(炭酸リチウム)、リスパダールなどの副作用で「アカシジア」という症状や「手の震え」が出ていることによる他は無い

 

ちょっと飛んで2012年5月8日

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ここで遂にベゲタミンBも無くなり、代わりにコントミンが処方されるようになった

そして不眠時の薬としてマイスリーが処方されている

 

さらに飛んで2014年

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ここで実は主治医と病院が変わっている

大きな小児精神科からクリニックに転院した。そして、薬が激減した

また、抗うつ薬として、パキシルが処方されるようになった

 

更に大きな出来事がこの年起きていた

 

広汎性発達障害であることがわかったのだ

当時クリニックの主治医がグループホームの顧問医だったのだが、わたしの様子を見てお薬手帳を見せろと言った。わたしがお薬手帳を見せたところ、顧問医のK先生は驚いた表情を見せた

「君、これは統合失調症の患者に出す薬ではないよ。君は発達障害ではないのか?」

「今日病院なら、主治医にきいてみなさい。間違いなく君は発達障害だと思う」

それまでずっと統合失調症だと思い込み、施設の職員も親もわたし自身もそうきかされてたので、驚いたが、確かに今言われてみれば、自閉スペクトラム症者の易刺激性に対する薬としても使われるエビリファイ、衝動を鎮静させる為のリスパダールは、現在小児の発達障害患者にも処方することで有名である

 

早速通院したわたしは、当時の主治医、T先生にきいた

 

「先生、K先生がね、あなたは発達障害だって言うんだよ。確かに統合失調症の他の人と症状違うし、違和感はずっとあったんだけど、わたしは発達障害なの?」

 

T先生はひと呼吸置いて、こう言った

 

「そうだよ、君は間違いなく発達障害だ」

 

わたし「どうして発達障害なのに統合失調症って言われてたの?」

T先生「それは昔M先生が入院の為に検査をしたろう?そしてお薬を出す時に、この病名なら出せる薬もあったんだ。それで書いたときいている」

わたし「先生はずっとわたしが発達障害って知ってたの?」

T先生「うん。18歳の君が入院して誰が担当するか決める時、カルテ見てすぐわかったよ。だからぼくが申し出たんだ、この子はぼくが引き受けますってね」

 

T先生は知っていたのだ。全て。

M先生は当時中学生のわたしに「高機能自閉症の疑い」という言葉を発していたことが判明した

当時の全IQ112だが凸凹の激しいwiscの結果、生育歴による幼い頃からの拘りから、そう判断したという。M先生は、実は1970年代後半から80年代、90年代にかけて、小児自閉症の症状の改善について研究されていた、自閉症に関してはスペシャリスト、第一人者とも言える人だったと最近調べて知った。そして、もう既に亡くなられていることも…。

 

その後、わたしはK先生のクリニックに転院した

 

次の3枚は、そのクリニックで2016年にストラテラを処方された時のお薬手帳である

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多動多弁、思考の回転で苦しんだわたしに、発達障害の薬として、ストラテラが25mgから処方された。同時にストラテラと相性の悪いパキシルが断薬、当時新薬として注目されてたイフェクサーを飲み始めた。これが賦活症候群を引き起こし、わたしは荒れに荒れた

 

遂にカウンセリングを必要と判断し、わたしは2016年5月26日を最後にK先生のクリニックを自ら去った

 

転院先の主治医、N先生はキーキーと荒れるわたしを診て

「この子は今後どうなってしまうのだろう、改善出来るのだろうか」

と心底心配した、と後に話した

「あなたはまるで、野生の自由な世界から、突然動物園に連れてこられて檻に閉じ込められたお猿さんのようだった」

という

ある時今までのお薬手帳を見せたところ、N先生は

「なんてこと!こんなに出されてたの!?そりゃあ賦活症候群になってもおかしくないわ。何故こんなに?先生はなんと仰って出したの!」

と声を少し荒げるように言ったので、わたしは

「何も説明は無いです。先生につらい、苦しい、助けてって言ったら、これ飲んでね、と言われて出されたので飲みました。治ると思ったからずっと飲み続けました」

と言うと、N先生は頭を抱えるようにしてため息をついた

そしてこう言った

 

精神科医に限らずだけどね、医師って説明してわかる人にはきちんと説明する義務があるの。あなたは説明すればちゃんと理解できる人間なのに、当時の医師が説明義務を怠ったのは、同業者として、とても恥ずかしいわ…」

「あなたは今まで物凄い多剤処方をされてきた。簡単に抜けられないけれど、少しずつ減らして行きましょう。あなたに不要な薬は全て断ち切ります。あなたはいずれ、1日エビリファイ1mgでやっていける人間になれる…いや、する。わたしがそうするわ」

 

そして、2016年秋、様々な心理検査の結果、わたしの診断されていた統合失調症は「誤診と見ても致し方ない」とされ、正式な診断名は

「広汎性発達障害」「解離転換性障害(解離性障害の一種で、わたしの場合解離障壁がほぼ存在しない為、解離性同一性障害(多重人格)ではない)」

となった。なお、広汎性発達障害に関して言えば「ASD(自閉スペクトラム症)は黒寄りのグレーで積極奇異型、ADHDは薄いグレー」となった

 

現在の処方は、体調不良により若干増えたが、以下のお薬手帳の通りである

(6月15日の処方だが、現在も引き続きこの処方である)

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この記事では多剤処方に至った経緯とその後を綴った

 

ひとつだけ、読者のかたに誤解して欲しくないことがある

 

薬は決して、毒ではない。正しい処方と正しい量を服用すれば、改善するものは改善する

子どもだから、薬飲ませるなんて!薬なんて毒だ!という親御さんの声をちらほらきくが、勝手に辞めない、減らさない、ちょっとおかしいと思ったら医師、薬剤師に躊躇うことなく相談すること

勝手に減らせば、患者は離脱症状に苦しむ。そして再開する時も副作用が強く出る場合もあるので、勝手に弄らないことは守ってほしい

 

医師もピンキリである。それぞれに専門分野もある

おかしい、なんか違うと思ったら、セカンドオピニオン、サードオピニオンも利用していいと思う

 

知識があるだけでなく、理解があってきちんと向き合ってくださる医師に出会えたからこそ、わたしは今のところここまで来れている

 

離脱症状など、薬で苦しんだ経緯に関しては、今後またここに書いていこうと思う