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ももたんの発達障害ライフ

発達障害当事者であるももたんの声をお届けします

人を全否定しないわたし

わたしは人を、どんな人でも全否定することは出来ない。

 

わたしが憎んでる人、恨んでる人(この2つは少数派)から犯罪者(国際的含め)、政治家(全ての党、無所属)、など、わたしがあまり好まないジャンルの人も全否定出来ない。

 

何故か。

 

わたしは、わたし以外の人間には「わたしより優れた部分が必ずある」からである。これは全ての人間において言えるだろう。

 

まず、わたしを小・中学生の時にいじめてきた子に関しては、そもそも恨みも怒りも無い。何故なら普通の子たちがほぼを占める通常学級に発達障害の変わり者のようなわたしがいれば、子どもは好奇心旺盛なのは当たり前だから、ちょっかいやからかいをしたくなるのは当然であって、興味を持ってやいのやいのと聞いてくるのも当然なのである。だから、あのいじめは仕方なかったもの、当時の世の中の認識として発達障害などの知識が広くなかったことから通常学級にいた変わった子のわたしはいじめられても仕方なかったのだと認識している。

勿論、今の世の中とは随分違うから、今はそう簡単に仕方なかったとは言い難いと思うのは当然。

 

そして、政治家に関しては、確かにわたしもツイートで批判することや直接言及することもしばしばあるが、それはわたしもその方の政策やその時の行いをほぼ正確にニュースなどで把握した上で批判と言及をしている。しかし、全否定はしない。何故なら政治家はとにかく自己コントロール力、体調管理、どんな状況でも愛想よく応える能力などが求められるしそれが必須である。わたしには体調管理は何とかしているが、どんな状況でも愛想よく応える能力が皆無。何か刺さることを言われればパニックになりかねないわたしにとって、その能力は喉から手が出るほどほしい能力である。それを求められる世界に生きているだけで、全政治家は凄いところにいるなと思えるのだ。安倍総理は確かに好まないが(これは様々な本人の政策や行いに関して把握出来る範囲で調べたことによる)彼は社会で言えばいわばブラック企業にも劣らないほどの激務をこなしているわけである。何かあれば夜中だろうが首相官邸で記者会見。昼夜問わず批判を浴びてもその相手を誹謗中傷を名指しでしたりは一般人に対してはまずしないし、する暇も無い。それがわたしに出来るなら否定ももっとしている。しかし、わたしに出来ないからこそそこをこなすところは否定出来ないのだ。

 

もっと極端な例を言おう。

 

これは決して日本のことではなく世界的な犯罪者であり、既に処刑されている人物、ウサマ・ビンラディンである。

彼は確かに極刑である死刑を下された極悪犯罪者。しかし、彼にもまたわたしには無い優れた部分がある。彼にはたくさんの部下がいたり、国をどうするか考える力を持っていた。わたしにはあの大組織を動かす力は無い。あれがあって体力自己コントロール力さえあればわたしは政治家も目指したのではというほどである(目指したことは無いが例え)。そして、彼の指示をする力と彼を支持する人物の多さ。これはわたしには到底及ぶわけの無い数値である。そうなればそこを否定は出来ないのだ。つまり、全否定出来ないということになる。

 

わたしを恨みTwitterFacebookをブロックして来た人は数多くいる。しかし、その人達も全否定しない。人であれば誰かより優れた部分は必ずある。いわばその人のみに与えられた能力はどんな人でも持っている。それを考えたらそれを否定したら「じゃあお前は出来るのか」と言われるのは当然。そうでなくても人はどんな人でもどこかの面で頑張っている。例えわたしを裏切った人でも。そんな人達を否定など、何故しなければならないのか、わたしにはわからない。わたしから金を騙し取った人がいたが、その人も人を惹きつけるわたしには無い力を持っていた。そこはどうしても否定出来なかった。

 

こんなことを言うと、善人ぶって、という声がきこえてきそうだが、本当に否定出来ないのである。

 

それと、人とは完全理解の出来ない生き物である。人同士でその人の全てを、心の中まで理解出来ていたら、エスパーだとさえ思うし、逆に怖くなるし、そんな人まずいない。

 

よくTwitterで精神・発達障害当事者などが、健常者は敵だとか、カサンドラは敵だ、発達障害の敵はサイコパスという言葉もきいたことがある。しかし、それは相手を否定してしまっている。そんな状態で障害を、特性を理解しろしろと求めてるだけでは何も理解されないし、寧ろ何も起こらない。

 

わたしはカサンドラケアをしている方と相互関係であったり、健常者とも相互フォローにあったりは当然している。それはやり取りがあったのは勿論だが、その相手を少しでも理解しようと思っているからだ。

将来支援側に回りたいと決意しているのなら当然の行動である。

しかし、幾らこちらから理解しようとしても相手がこちらを拒絶していたら、理解は出来ない。そこで、信頼関係を結ばなければと思うのである。

 

正直わたしは犯罪者の行動からその生い立ちをきいて理解したいとさえ思うが、これは極論。まずコンタクトも取れないし、接する機会もほぼ無い。だがニュースを見て共感したり周りの理解さえあれば、と思う犯罪者もよくいる。その背景にはわたしの過去の境遇もある。

 

この考え方に至るまで生まれてから30年近くかかっている。本当に最近思い始めたことだ。

母には暴力も受けたが、母の生い立ちや性格を考えれば仕方ないのかも知れない。ただ、わたしは母にはもう関わる気は毛頭無いが、全否定はしていないし、母の本職であったピアニストとしては本当に尊敬していたのだ。もし母が一度でもわたしに謝り、わたしに心を開き、わたしも心を開いて接することが出来ていたらまた違ったのかも知れない。30歳の誕生日にメッセージが来なかったのは、母がわたしを拒絶しているのだろう。これでは相互理解はわたしがいくら姿勢を見せても叶わない。これは母の選択であり、そこは人として自分の親として尊重して離れるしかないのだ。やっと30歳になってここまで考えられるようになった。

 

ここで最後に思う。

 

人と人との諍いの絶えないこのご時世、世の中で、人を全否定せず、お互いが理解し合おうという姿勢を見せれば、世の中は大きく変わるのではと思うのだ。

 

それは、健常者でも、障害の異なるそれぞれの障害者でも、人種が違っても、同じではないだろうか。