ももたんの発達と解離ライフ

発達障害・解離性障害当事者であるももたんの声をお届けします

わたしの解離性障害②〜イマジナリーコンパニオン〜

前回は解離性障害について大まかな説明をさせていただいた

ここからはわたしの解離性障害について、より深く掘り下げた上で綴っていこうと思う

 

先ずは幼少期からのイマジナリーコンパニオン(空想の友達)についてである。ここでもとある記事から引用しつつ、書いていく

イマジナリーコンパニオンの説明の前に、「感覚の洪水」というものが存在することを説明しなければならない

 

ひとえに「感覚の洪水」と言っても分かりづらいと思うので、どういったことが感覚の洪水なのか、例を挙げてみよう

 

・人間の相手をするのが嫌、相手の気持ちを読まないといけない、ごちゃごちゃする時は混乱する

・色んな思考が頭に湧き出てきて止まらない、周りの人の会話が混ざってしまい、入ってくる(ここは恐らくASD自閉スペクトラム症)の特徴でもあるカクテルパーティー効果が働かないのもひとつの原因であろう)

・人との会話の区別がつかなくなることがある、考えたくないのに考えてしまう

・考えるのを止めなくてはいけないと思っても止まらない、泣き出したい、大声を出したくなる

 

以上、記事から抜粋したものだが、これを読むとHSP(ハイリー・センシティブ・パーソン)の症状にも類似していることがわかる

自分もASD優位であり、更にHSPの気がある為か、上記の例を読む際若干フラッシュバックのようなものが発生したが、こうした感覚の洪水に圧倒された結果、パニックになったり自傷行為に及んだり、フラッシュバックが発生することは少なくない

 

感覚の洪水から逃げて刺激を避ける、所謂「環境調整」を行う際に、当事者は「心を切り離す」といった解離を利用した心理的な方法で対処する人もいる

 

心の切り離しとはまさに解離であり、当事者はこれを「自分を飛ばす」とも表現する

例として、例えばこっ酷く叱られて自分がもう耐えられない、キャパオーバーをしてしまうと感じた時に、自分という1人の人格をポーン!と跳ね飛ばし、もう1人の自分に代わりに叱られてもらう、という解離を自ら起こす

当然ながらもう1人の自分は叱られるわけだから、その子はストレスが溜まるし、本人を良く思わない人格に形成されてしまうことも少なくない。結果的に不満から、その子が本人の希望も無いのに自傷行為に及んでしまうことも多々ある

 

ここで出てくるのがイマジナリーコンパニオンである

イマジナリーコンパニオン(空想の友達)は何も解離性障害の人だけに存在するものではない。健康な子どもにも多く見られることである。例えば1人遊びをする子どもが空想の世界に浸り、まるでもう1人子どもがいるように見えない何かに話しかけたりすることがあるが、それもまたイマジナリーコンパニオンである

イマジナリーコンパニオンは通常は遊び相手であったり、孤独を癒す空想上のもので、10歳前後には自然と消えるものなのだが、時にそれが大人になっても存在することがある

通常は親しい友人ができると消失することが多いと専門家は述べており、わたしのように大人になっても存在する場合は、周囲からの孤立や孤独感、現実世界に馴染めないつらさからイマジナリーコンパニオンが形成され、これらは社会性の障害と関係性があるのでは、ともされているそうである

 

わたしがイマジナリーコンパニオンについて調べた時、以下の文章を目にした

 

「子ども時代のイマジナリーコンパニオンは一般的な通識とは異なり、孤独で友達のいない子どもではなく、寧ろ外交的で共感能力の高い子どもに見られることがわかっている」

 

これを見てわたしの子ども時代を振り返ってみた。わたしは元々積極奇異型のASD優勢広汎性発達障害当事者である。人に積極的に話しかけ、遊ぼうとし、時にはドン引きされるほど人に依存しかけたりした

共感能力も非常に高く、様々な事に対し感情移入してしまうことがあった。所謂先に述べた「感覚の洪水」でもある

 

わたしのイマジナリーコンパニオンは何人か存在した。子どもの頃は定型発達者のイマジナリーコンパニオンのように話し相手や友人代わりにしていたのだが、わたしが成長するとそのイマジナリーコンパニオンは「自分の身代わり」に役割を変えてゆく

 

自分の思考の中でA、Bというイマジナリーコンパニオンがいたとしよう。わたし自身が困難にぶち当たった時、わたしの脳内ではこのような会話が繰り広げられる

 

わたし「もうダメ、自分じゃ耐えられない誰か代わってよ」

A「そっか〜どうしようか?わたし出る?Bはどう思う?」

B「うーんこの場合は自分は対応出来ないなぁ、ごめんけどAお願いできる?」

A「OK!わたし出るね!」

 

こうしてAがわたしの「盾」となり出てきてくれる。所謂人格交代だ。Aが出ている間、わたしはAを遠くから見る感覚でいる

Aが身代わりとなり、わたしの代わりに困難に立ち向かっているのだ。その時のAを思うと正直つらい。涙が溢れてくるほどである

 

ここで漸くお解りだろうか、解離性障害であるわたしにとってのイマジナリーコンパニオンは、その名の通り「伴奏者(コンパニオン)」から「もう1人の自分(人格・パーソナリティ)」へと変わっているのである

 

わたしのような解離性障害当事者が困難を生き抜くには、このように世間からは「逃げ」とも言われてしまうであろう方法を使わなければ、なかなか生きてはいけない

 

しかし忘れてはならない、解離は健常者にもあるということを。今回の記事に例えて言うならば、母親が子どもを叱る時に鬼の形相で怒鳴っていたのが、そこへ電話がかかってきて別人のように猫撫で声で話し始めるといった光景は、かなりの人が経験していると思うが、これも一種の解離なのである

ただこれに関しては当然の行動であると思う。電話の相手に子どもを怒鳴っている口調と同じ口調で話すわけにはいかない。となると、その母親は「意図的に怒鳴っている自分を飛ばしてよそ行きの自分を出す」ことをしているのだ

 

このように解離は何も解離性障害の人だけが経験するものではなく、全ての健常者も持ち合わせているのである。ただそれが病的になるかならないか、の違いなのだ

 

わたしの中で幼い頃存在したイマジナリーコンパニオンは、今や複数の人格となり、存在しているが、わたしの場合これは正直「場面場面に適応した自分を出していること」に過ぎない。ただ自分がキャパオーバーにより限界を迎えた時、それは病的に現れ、幼児退行といって幼い子どものような口調になったり甘えたりするが、それは「自分を守る為に自分を飛ばしている」のである