ももたんの発達と解離ライフ

発達障害・解離性障害当事者であるももたんの声をお届けします

わたしの感じる「別れ」

人は、人生で様々な「別れ」に遭遇する

 

喧嘩別れ、卒業しての別れなど、色々挙げればキリが無いが、その「別れ」の中には、当然だが「死による別れ」もある

 

以前、自閉症児の親御さんが「この子は人の死の意味がよく理解出来ない、何か大変な事が起こったということは解釈したらしい」ということを仰っていたのを思い出した

 

わたし自身、人が亡くなっても、葬儀で周囲が泣いている中、平気でケロッとした表情で、淡々としているとよく言われるし、自分にもその自覚はある

 

最初はその前述の親御さんが仰ったように「わたしは自閉傾向が強いが故に、人の死などの意味がよくわかっていない」のだと思っていた

 

 

ところが、それを覆す出来事が起こる

 

 

昨年、今年と、とある知人が2人自死した

 

 

しかし、わたしは特に何も考え込む事なく、知人の死の後も平然としていた

寧ろその事をカウンセリングで伝えた心理士のほうが、その平然さに驚いていた

 

そして更に、わたしと同じように知人を自死で亡くした友人と、その事について話す機会があった

そこで気付いたのである

 

わたしは「割り切っていたのだ」ということに

 

人は亡くなってしまえば、もう会うことは二度と無い

寧ろ会いたくてもそれが叶うことはもう無いのだ

 

わたしの中で人が亡くなるということは、もう会えないから「諦めがつく」のだ

 

当然ながら自死した人間に、何故?といった疑問もわかない

もうその人は、その人の人生を全うし、最期も自分で選べた、それを周りがとやかく言う資格は無いのだと、少々残酷な表現であることは承知の上だが、思うのだ

 

 

では、「生きたまま別れる」ことに関してはどうだろう

 

 

生きたまま別れるということは、確かにもう会うことは無いのかも知れないが、生きている限り、この世の中の何処かには存在する

だから、もしかしたら、何処かでまた会ったり、すれ違う可能性すらあるのだ

 

そう考えると、わたしは「死に別れ」より「生き別れ」のほうが物凄くつらい

 

わたし自身は葬式などで、泣いたことは一度も無い

だが、文字通り生きたまま別れを告げられる場面では、あまりに密な関係の人間だと、それこそ号泣する。涙が溢れて止まらなくなるのだ

 

最近だと、わたしが大好きだったPSWのかたが、退職するという出来事があった

わたしがそのクリニックに通い始めた頃、めちゃくちゃな状態で荒れていたのを知っている、数少ない支援者である。彼女はわたしのその荒れていた頃から、やっと少しずつ落ち着くまでの過程を、ほぼ全て見ていた

 

先日、そのPSWとのケースワークで、嗚咽を堪えながら泣くわたしを、彼女は申し訳なさそうな表情で見つめながらこんなことを言った

 

「あなたにとって、これはひとつの「卒業」なのかもしれないですね」

 

卒業、17年ぶりにその言葉をきいた

 

そう、わたしは彼女にそれだけ依存していたということ、そこから彼女がいなくなることで「彼女(PSW)から卒業」という意味合いなのだ

 

「これから色々変化していく中で、良い転機なんだと思う。お互いつらいことだけど、良い意味で卒業、ですね。悪い意味で捉えないで、良い意味で」

「わたしが居なくなる、という変化と、でも、変わらないものもある。〇〇先生(主治医)と△△先生(心理士の先生)は、此処に居るから」

 

そんな言葉を彼女はわたしに言い聞かせるように言った

わたしはうんうん、と涙を拭いながら頷いた

それは自分への言い聞かせでもあった

 

 

生きたまま別れること、死に別れること、人生生きていれば数多く遭遇するものである

そして、人それぞれその捉え方も違う

 

この記事の捉えかたはあくまで「わたしの場合」である

これから年齢を重ねていく中で経験していく様々な「別れ」を、自分の中で如何に受け容れて消化していくか、大きな課題になりそうだ