ももたんの発達と解離ライフ

発達障害・解離性障害当事者であるももたんの声をお届けします

障害者には才能があるのか〜発達障害に着目するメディアへの危機感〜

ここのところ、NHKあさイチという番組で、発達障害が大きく取り上げられているが、それに伴い、様々な議論、物議が醸し出されている

 

例えば…

発達障害だからってみんながみんな才能があるわけじゃない

発達障害だけでなく軽度知的障害も取り上げて欲しい

・障害を誤解釈する内容はやめてほしい

など…

 

今放映されている番組はわたしは見ていないが、最近メインとして発達障害がメディアに取り上げられていることに危機感を覚えている

 

何故ならば、発達障害は知的障害、及び精神障害・疾患とは切っても切れないものがあるからだ

 

発達障害でも特に自閉スペクトラム症に関しては、知的障害も伴う人もいる。昔でいう「自閉症」と呼ばれていた人達だ。また、知的障害の多動と、注意欠陥多動性障害(ADD/ADHD)の多動は、若干異なるものもあるが、中等度知的障害、心疾患などを伴うダウン症候群の人に、重度の多動が見られる事もある

そして、発達障害及び知的障害の人間が、適切な支援を受けられず、発見も遅れれば、二次的に精神疾患を患うことは、最早デフォルトになっている。俗に言う二次障害だ

 

わたしが今回、何故発達障害だけではなく、精神障害・知的障害など様々な脳の機能の障害に触れたのかというのは、その切っても切れない関係性から、発達障害だけをメインに取り上げるメディアや、注目され始めている発達障害の情報に、当事者として危機感を覚えたからである

 

まず、この「発達障害」がよく取り上げられるようになったのは、「見た目にわからない障害」「見えない障害」を抱えていながらも、一躍有名になった人達のカミングアウトからだったとわたしは解釈している。以前にもこのブログに書いた栗原類さん、野田あすかさんらが金スマという番組で取り上げられ、またNHKのバリバラを始め、様々な番組に出演したり、インタビューも受ける当事者が増えてきた

 

だが、出演出来る彼らが、その番組に苦言を呈する当事者と大きく違うのは「外に出れる」ことである。外、というと社会というコミュニティから、家の外という身近なところまで幅広い意味を持つが、わたしが注目しているのは「家の外」である

 

働けない、家からも出られない、所謂引きこもり状態の当事者は、テレビやネットで取り上げられる発達障害の当事者が、とても眩しく感じるという。また、メディアに出る発達障害などの当事者には才能がある人ばかり!と苦言を呈する当事者もいる

 

そこで、このブログの本題である障害者には才能があるのか?という部分に触れていこう

 

わたしの解釈だが、障害者には元々爆発的に才能がある人間は、ごく少数派だと思っている。その少数派の多くはサヴァン症候群だとも思う。サヴァン症候群とは知的障害や発達障害のある者のうち、ごく特定の分野に限って優れた能力を発揮する人の症状を指す、とされている

例えば映画『レインマン』のきっかけとなった大変な記憶力を持っていたとされるキム・ピーク。数字を色相や感覚と結びつけて理解する共感覚能力を持つダニエル・ポール・タメット。映像記憶に優れた能力を持ち、それを元に絵を描く建築画家のスティーブン・ウィルシャー。彼らはサヴァン症候群とされている

 

わたしは障害者でそういった特殊な能力を生れながらに持つ人間は、上記のサヴァン症候群の人など、本当に少数派なのだという解釈である

 

では、何故発達障害始め障害者で優れた能力を持ち、発揮することが出来る人間がいるのか?

 

結論から言うと、それは「適切な環境と周囲のサポートにより、元々持っていた特性の優れた部分を特化させることに成功したから」だと思っている

 

まず人は居心地の悪い環境や状況で、本来の能力を発揮することは不可能に等しい。テニスの大きな大会で伊達公子さんが、プレー中に観客の溜息に怒りを露わにしながら「ため息ばっかり!」と叫んだニュースが話題となったことがあったが、彼女が冷静さを保てずそう叫んだのは「彼女にとって居心地が悪い状況になった為」ではとわたしは推測している

また先日フィギュアスケートのグランプリシリーズで、白岩優奈選手が思うように結果が出なかったのだが、それはアリーナ・ザギトワ選手が白岩選手の前に滑り、高得点を出したことで会場は物凄い歓声に包まれた。その興奮覚めやらぬ中次滑走の白岩選手は、その雰囲気に飲み込まれてしまったと言う

 

極端な例だったが、一流のスポーツ選手ですらそうなってしまう中、周囲に過敏な障害者が、自分にとって居心地の悪い環境に、何年も何十年もの間身を置き続ければどうなるか。結果は一目瞭然で、特性も能力も上手く活かすことは出来ないし、自分にある特性が活かせる場を作れることすら知らずに生きている人が大多数を占めると思う

 

知的障害者の場合、能力は確かに所謂健常と呼ばれる類の人間より、全体的に劣ってしまっているが、彼らは全く成長しない訳ではなく、「経験をもとに物事を少しずつ覚え、それを次同じ状況になった時に思い出す」事で適応しようとする。これは知的障害者特有の物事の解釈の仕方から来ている

 

発達障害者の場合は能力のバラつきがとにかく大きいのが特徴的だが、周囲の環境と周囲の適切なサポート、それに加えて自身の症状を自らがしっかりと理解、受容し、自分の状態を把握することでセルフコントロールが可能となり、社会や様々な場所で適応することが出来るようになる。(これは能力のバラつきという部分を除けば軽度知的障害者も当てはまるケースがある)

 

「障害者は才能がある」という言葉に嫌悪感すら覚える障害者。彼らの多くは引きこもって家の外に一歩出るだけでも大変なのである。準備が思うようにいかない(服装・清潔感なども含め)だけでなく、前日になれば「明日行けるかな」「会う人に変に思われたらどうしよう」「遅刻しないだろうか」という予期不安も発生する

そして当日、玄関から一歩踏み出そうとする足は物凄く重い。出れても道中不安感から調子を崩し、駅の救護室で休ませてもらったという障害者もわたしの周りに少なくない

 

そんな中テレビやメディアに堂々と出れる、自分と同じ障害を抱えた人間を見ればどう思うか。それはそれは輝いて眩しく見えて、自分なんか…となるのも当然なのである

とはいえ、その当事者ですら苦労はしていて、環境やサポート無しでそこまで来れた訳ではないのだが、引きこもってしまう当事者からすれば、そんなものは関係無い、ただただひたすらに羨望感を覚え、自身に対しては自己肯定感のカケラも無くなってしまうのだ

 

障害者であって、才能がある人がいないとは思わないが、それに当てはまる障害者はごく少数であって、多くの障害者は環境の悪さや適切なサポートを受けられず、持っている特性を活かす場に出会えないこと、また、発達障害だけに注目するのではなく、二次的に発症する精神障害・疾患。発達障害と知的障害を伴う人たち。そして一見普通に見えてしまい、身の回りのことはある程度できるが、独特な解釈の仕方で生き、困難を抱えるも訴え方が分からず苦労する軽度知的障害者など、もう少し着眼点を変えて見てほしいと思う世界が、まだまだ沢山あるのだと、わたしは静かに訴えていきたい

 

加えて、表社会に全く出ない、若しくは「出ることを許されない、許されなかった障害者」達にも、どうにかして支援の手が差し伸べられることを、願ってやまない